脳の老化を最小限に抑えるー20年の研究から導かれた脳ドックの新常識
近年、大きな注目を集めている「Deeptechスタートアップ」。国内のスタートアップを牽引していたウェブサービスやアプリなどをはじめとするIT系のビジネスとは違い、革新的な技術や発明を武器に急成長を遂げるケースが増えている。起業家の特色を見ても、大学教授や医師など、これまではあまり見られなかったバックグラウンドが目立つ。
しかし、今後の活躍が期待されている一方で「とっつきにくさ」を感じている方もいるのではないだろうか。「技術を見ても、どうすごいのか判断できない」「どの領域が盛り上がっているのかわからない」と思っている方もいるだろう。そんな方に向けて、Deeptech業界の有識者や起業家たちの話を届けるのがシリーズ企画「Deeptech Baton」だ。
第四弾で紹介するのは、脳の健康レベルを算出する脳ドック用のプログラム「BrainSuite」を開発する株式会社CogSmart(コグスマート)。東北大学の脳研究の成果をもとに、単なる疾病の発見ではなく、脳の健康を維持するためのサービスを提供しています。
20年に渡り脳の研究を続け、医師兼医学博士としても働く瀧靖之氏、弁護士として海外でも活躍していたキャリアを持つ樋口彰氏がタッグを組む同社。既に多様な企業とのオープンイノベーションを実践する他、香港をはじめ海外進出も進めています。
今回は会社の成り立ちからサービスの優位性、オープンイノベーション戦略についてお二人に聞きました。
「医学博士と弁護士」タッグ誕生の秘話
ーーまずは起業前に瀧さんがどのような研究をしていたのか教えてください。
瀧氏:私は2000年頃から脳の発達や加齢についての研究をしてきました。当時の脳の研究は主に疾患に対するものばかりで、健康な人の脳の研究というものは殆どなかったのです。そこで私は20代から80代まで1,000名以上の方のデータを集め、脳がどのように加齢していくのか追跡調査をしていました。
当時はまだ認知症予防に関する研究も殆ど無く、「どのような生活習慣が脳の加齢を早めるのか、もしくは遅らせるのか」を追求した私たちの研究は、世界的にも最先端のこと。それを研究だけで終わらせるのはもったいないと考え、社会に還元しようと思ったのが起業のきっかけです。
ーーどのように起業したのでしょうか?
瀧氏:当時の大学のルールでは、教授をしながらCEOになることはできなかったので、当時医学部の学生だった中村(※株式会社CogSmart 医師 中村匠汰氏)を代表に起業しました。彼はビジネス経験はないものの、一緒に研究していて起業家精神が旺盛で、医師には珍しく視野が広いと思って彼にお願いしたのです。今は代表ではないものの、当社で働いてくれています。
私も中村もビジネス経験がないため、起業当初は苦労の連続でした。そこでよく相談に乗ってくれていたのが、現CEOの樋口です。
ーー樋口さんの経歴についても聞かせてください。
樋口氏:私は2008年から弁護士として働いており、2014年からは2年に渡っての海外滞在、具体的には、イギリスへの留学、そしてイギリス・オーストラリアの法律事務所での出向を経験していました。当時は日本に先んじて海外でFintechがブームになっており、私もそれを傍目に見ながら勉強をしていて。2016年に帰国した時は日本でもFintechの案件が増えており、先輩弁護士からの誘いでそれらの案件も受け持つようになったのです。それがスタートアップに携わるきっかけになりましたね。
その後、自ら起業家の目線で勉強しようと思い、留学先だったオックスフォード大学の短期MBA・FinTechコースをオンラインで受けるようになって。世界中の人とディスカッションする数ヶ月を経て、同じグループだったメンバーたちと一緒に起業準備も始めました。
結局は起業に至らなかったのですが、様々なフォーラムに参加するうちに知り合ったヘルステック企業で、リーガルもやりながら経営も経験することができました。初めての経営経験は様々な学びがあったのですが、コンプライアンス上の問題で会社を離れることとなり、視野を広げるために今度は香港の法律事務所で働くことにしたのです。
ーー瀧さんから相談を受けるようになったのも、そのころだったのでしょうか。
樋口氏:出会ったのは香港に行く前だったのですが、香港に行ってからもよく起業の相談をされていました。私自身も日本や香港でネットワークがあったので、投資家やCTO候補を紹介するようになって。
そんな時に領事館の方と知り合う機会があり、偶然にも彼が瀧先生の著書のファンだったので、いろいろとよくしてくれたんです。ちょうど新しくスタートする「香港サイエンスパーク」というインキュベーション施設のプログラムにも推薦してくれました。
コグスマートのサービスは世界で戦えるサービスだと思っていたので、可能な限り早く海外で宣伝した方がいいと考え、そのプログラムを起点に進出しようと考えたのです。プログラムに採択されれば4年間で600万香港ドル(当時1香港ドル=約13.5円)もの助成金も入るので。しかし、そのプログラムで香港に進出するには、香港に支社を作って従業員を2人置く必要があったため、支社の設立にも携わりました。
ーー樋口さんは当時はまだ代表ではなかったのですよね?
樋口氏:そうですね。当時はまだ香港の事務所に在籍していたのですが、あまりに肩入れしている様子を見て、当時のボスから「本当はコグスマートにコミットしたいんじゃないのか?」と言ってくれて。
その言葉で決意が固まりプログラムの助成金の申請準備の開始のため、2020年10月に支社を設立し、そのまま事務所を退職し、香港で旗揚げしました。香港支社が自立して稼働できることを見届けて帰国することとし、コグスマート本社に加わったのは2021年10月のこと。そこから代表取締役CEOに就任しました。
ーーなぜ瀧さんは、樋口さんに代表をお願いしようと思ったのでしょうか。
瀧氏:当時は組織に人も増えていって、資金調達にも動かなければならず、ビジネス経験を持っている人の存在が必要になったからです。中村は起業家精神もありますし、起業してからも成長していましたが、組織をマネジメントし、様々な事業をハンドリングするにはもう少し経験が必要な状態でした。
その点、樋口さんは民間企業・官庁問わず、事業や政策立案を進めてきた経験も豊富ですし、なによりお人柄が素晴らしい。私もこれまで研究室を主催してきて、何より人柄のよさが大事だと感じていました。その点、樋口さんの人柄には惚れていたので、共同代表として一緒に事業を作っていきたいと思ったのです。
幸せな生活を支える、脳ドック用画像診断システム
ーーBrainSuiteについても、どのようなサービスなのか聞かせてください。
瀧氏:現在は医療の画像認識システムは数多くありますが、他社のシステムと大きく違う点は2つ。一つはAIに活用しているデータです。1時点の横断データを利用しているシステムはごまんとありますが、同じ人の脳を何年にも渡って調査した経年データを使っているシステムは知る限りほとんどありません。そして、そのようなデータを持っているのは、2000年代から研究を続けている私たちの強みです。
加えてサービスを開発しているのが、実際に医者をしている私たちであること。医者でなくてもデータの解析はできますが、大事なのは患者を見ながら、今の世の中で何が求められているのか熟知していることです。特に医療業界は閉ざされた業界で、他の業界からアプローチするには高いハードルがあります。その点、長年医者をしてきた私たちには大きなアドバンテージがあります。
ーーBrainSuiteを使うことで、脳ドックはどのように変わるのでしょうか?
瀧氏:脳ドックは数万円という費用がかかりますが、それで分かるのは脳血管障害や腫瘍、動脈瘤などの疾病の有無だけ。実際に疾病があった方にとっては有意義ですが、疾病がない方には「異常なし」の一言だけで終わることも少なからずあります。それでは「数万円も払ったのに」と思っても不思議ではありません。
BrainSuiteを使えば人の記憶を司る「海馬」の体積を、人の目では判断できないほど細かく計測して、同性同世代の方々と比べて、体積がどのぐらい保たれているかがわかります。海馬は加齢とともに体積は萎縮しますが、その程度は生活習慣によっても大きく異なります。しかも、海馬は単に萎縮するだけではありません。運動習慣を持つなど生活習慣を整えることで、神経細胞が新たに生まれる「神経新生」が起きて体積が増えたり、記憶力が維持、向上されることも分かっています。
BrainSuiteを使えば同性同世代の方々と比べ、海馬がどの程度保たれているのか、どうすれば海馬をより健康な状態に保てるかが分かるのです。
ーーBrainSuiteが普及し、脳の萎縮を抑えることができるようになれば、私たちの生活はどのように変わるのかでしょうか?
瀧氏:脳の萎縮を抑えることで、考えたり判断するなどのいわゆる高次認知機能が保たれて、日常生活が豊かになる事で心身ともに幸せになれるはずです。脳が健康になるためには、運動や食生活を見直さなければなりませんし、それは結果的に体にもいい生活習慣ということ。加えて、脳が健康になれば考え方も前向きになり、いろいろなことに対しても活動的になるので、より幸福感の高い生活を送れるでしょう。
また、幸せになるのは脳を健康にした本人だけではありません。たとえば一人の方が認知症になれば、その方の生活を支えるために、家族など周りの人の生活にも影響がでますよね。脳を健康に維持していつまでも元気でいれば、家族を含め周りの人の負担も減りますし、何より一緒に人生を楽しめるようになります。
「法律の専門家をファンにしておくこと」大企業の共創をスムーズに進めるコツ
ーーこれまで様々な企業とコラボレーションしていますが、オープンイノベーションについてどのように考えているのか教えてください。
瀧氏:私たちのサービスはあらゆる企業とコラボレーションする可能性を持っているので、積極的にオープンイノベーションをしていきたいと考えています。私たちのサービスは脳を検査して終わりではありません。生活習慣を変えてもらうために、脳にいい取り組みを提案していく必要があるのです。
そして、脳にいい取り組みというのは多岐に渡ります。たとえばおしゃれや体を動かすのも脳にいい取り組みですが、私たちがそれらのサービスを提供することはできません。だからこそ様々な企業と繋がりながら様々な提案をしたいと思っています。
私は大学に在籍していた時から積極的に産学連携をしてきましたが、多くの企業がヘルスケア産業に興味を持っているものの、どう繋がればいいかわからず悩んでいました。私たちがその受け口になって、今後も様々な産業の企業とコラボレーションしていければと思っています。
ーー2021年にはフィリップス社と事業提携し、BrainSuiteを販売してもらっているようですね。どのように提携を進めたのでしょうか。
瀧氏:フィリップス社に関しては、もともと東北大学が10年来のお付き合いがあり、私自身も起業前からお付き合いさせて頂いていました。もちろん、私たちのサービスやビジョンへの共感があったからこそですが、ゼロから関係を構築したわけではありません。
先方は世界的な大手メーカーですが、ハードウェアビジネスだけでなく、私たちのようなDXソリューションには大きく関心を寄せてくれたのです。
ーーフィリップス社と提携する上で、難しいことがあれば教えてください。
樋口氏:フィリップス社は意思決定が早かったので、スピードが問題になることはなかったのですが、外資が故にルールの違いがあって。特にフィリップス社が本社を置く欧州は、日本よりも規制関連のルールが厳しく、個人情報の扱いなどについて調整するには苦労がありました。
情報セキュリティに関する条項にも、そのままでは受け入れられない箇所があって。事業背景と先方の懸念点さえ分かれば1文を追加するだけで済む問題だったのですが、もしも法律事務所に依頼していたら莫大な時間がかかっていたと思います。修正箇所には先方も納得してくれましたし、スピーディに対応したことで印象もよくなりましたね。
ーーそんなことができるのは樋口さんの経歴ならではだと思うのですが、もしも社内に法務の担当者がいない場合はどうすればいいのでしょうか?
樋口氏:自分たちのファンになってくれる弁護士などの士業の方を探しておくことです。今はAIなど新しい技術が次々に生まれており、新しく生まれた領域は規律が複雑になり、法律も横断的に考える必要があるなど、どんどん難しくなっています。
弁護士にとっては、法的アドバイスをする上で、どういうビジネスで、どういう技術があり、どういう関係者が絡んでいるのか、座組はどうなっているのか、を理解しておくか・いないかで、その後の法律のあてはめが大きく変わります。そのため、何か起きてから弁護士に相談しても、ゼロから会社の状況やその分野について勉強しなければならないため、対応に時間がかかってしまうんです。そうならないよう、普段から自分たちのビジネスや技術について理解してくれている、信頼できるパートナーを作っておけば、何かあってもスピーディに対応できるはずです。
パートナー戦略で効率的に海外進出を果たしたい
ーー海外とのルールの違いについても触れていましたが、今後の海外進出について聞かせてください。
樋口氏:海外進出は積極的に考えていますが、香港のように世界各地に支社を出すのではなく、パートナーを作りながら進めていきたいと思っています。
国によって医療やビジネスのルールが違うため、それを全て自分たちで勉強するのは限界があります。効率的に海外に進出するためにも、現地のルールに精通しているパートナーと組んでいきたいと思っています。
ーー既に香港には進出していますが、その後はどのような進出計画を考えているのでしょうか?
瀧氏:まずは中東への進出を考えています。中東ではまだ認知症のリスクが顕在化しておらず、今はブルーオーシャンなので。いち早く市場を開拓して基盤を作りたいと思っています。
加えて、中国と中東とヨーロッパは医療機器のレギュレーションが共通しているところがあるので、中東の次はヨーロッパ。それから一大市場があるアメリカにも進出していきたいですね。
ーー最後にお二人のビジョンをお願いします。
瀧氏:脳の健康というのは、実際に症状がでないと意識しないものです。だからこそ、私たちのサービスを広げて、症状が出る前から生活習慣を変えるきっかけにしていきたいと思います。
特に大事なのは、検査を受けた後にどんな生活習慣を提案するか。しかし、私たちが全てのソリューションを提示することはできないので、様々な企業と組みながら多様なソリューションを提示していけるようになりたいと思います。
それにより健康な人が増えれば、国の医療費削減にも繋がるので、できるだけ多くの人にサービスを届けていきたいですね。
樋口氏:BrainSuiteは測定結果をもとに、同性・同世代全体を100位として、自分の海馬の萎縮度がどれくらいか順位で示してくれるんです。同性代とは10歳区切りで、自分の年齢の前後+-5歳です。私が初めて測定した時の結果は91位/100位。弁護士時代から徹夜することも多く、夜食でカップラーメンを食べたり、そのまま机で突っ伏して寝て、睡眠不足で毎日仕事でお酒を飲む生活を続けた結果です。
その結果はショックでしたが、大事なのはそこから生活習慣を変えれば、脳を変えていけるということ。今でも仕事はハードですが、瀧先生の指導をもとに少しづつ私も変わり始めています。
そのように生活習慣を変えるべき人はたくさんいると思いますが、年に一度の脳ドックだけではなかなかモチベーションが続かないですよね。今後はもっと脳の健康を意識して、いい生活習慣を維持できる仕組みを作っていきたいと思っています。
それにより、認知症などの疾病を減らすのはもちろん、いくつになっても心身健康で天寿を全うする人を増やすのが私たちの目標です。
(取材・文:鈴木光平、撮影:齊木恵太)
■連載一覧
第2回(前編):細胞培養の常識を変える「培地」開発技術
第2回(後編):細胞培養の常識を変える「培地」開発技術