細胞培養の常識を変える「培地」開発技術【前編】
近年、大きな注目を集めている「Deeptechスタートアップ」。国内のスタートアップを牽引していたウェブサービスやアプリなどをはじめとするIT系のビジネスとは違い、革新的な技術や発明を武器に急成長を遂げるケースが増えている。起業家の特色を見ても、大学教授や医師など、これまではあまり見られなかったバックグラウンドが目立つ。
しかし、今後の活躍が期待されている一方で「とっつきにくさ」を感じている方もいるのではないだろうか。「技術を見ても、どうすごいのか判断できない」「どの領域が盛り上がっているのかわからない」と思っている方もいるだろう。そんな方に向けて、Deeptech業界の有識者や起業家たちの話を届けるのが新シリーズ「Deeptech Baton」だ。
第二弾では、京都大学の特許技術を用いて革新的な細胞培養ソリューションを提供しているバイオスタートアップ、株式会社マイオリッジにフォーカスする。同社は、2022年に入ってから住友化学、三菱ケミカルホールディングス、凸版印刷と名だたる大企業との提携を発表している注目のスタートアップだ。
CEOの牧田直大氏は起業当初、社会人経験もなく再生医療を学ぶ学生だったわけでもない。そんな彼がなぜ起業したのか。その強さの秘密をCMOの鈴木健夫氏と併せて深掘りした。
高額な培養コストを100分の1にする革新的技術
ーーまずは事業内容について教えてください。
牧田氏:私たちが主に提供しているのは、細胞を培養するのに欠かせない「培地」の開発ソリューションです。今や多くの業界で細胞が活用されていますが、その培養に必要な培地のコストが課題になっています。
私たちは、それぞれの細胞に最適な培地を低コストで開発する技術を持っており、そのコストを10~100分の1に下げることができるのです。また、培地の開発に限らず、その技術を応用した製品の販売や大企業との共同・受託開発、ライセンスアウトなど、事業の幅を広げています。
ーー細胞のコストが下がることで、どのような変化が起きるのでしょうか。
牧田氏:例えば製薬業界では、新しい薬を人に投与する前に、動物実験を行うことが欠かせません。しかし、最近では動物愛護の観点から動物実験に批判的な声が挙がっていますし、動物を飼い続けるのにもコストがかかります。加えて、動物で副作用が出ないからといって、人にも副作用が出ないとは限りません。
そこで最近では、動物実験に代わってiPS細胞由来の分化細胞で非臨床試験を実施するという新しい選択肢が検討されています。倫理的な問題もなければ、ヒトの細胞で実験できるので毒性の予測精度が上がり、パイプラインの開発後期で毒性が検出されて開発中止に陥ってしまうリスクも抑えられます。
しかし、これまでiPS細胞由来の分化細胞を培養するのは高いコストが課題になっていました。製造コストが上がれば、それは商品の価格に反映されてしまいます。
私たちのプロテインフリー培地を利用すれば、iPS細胞由来心筋細胞を製造する際の培地コストが100分の1に抑えられます。安価な細胞を提供することは、動物実験を減らしてiPS細胞由来細胞を試験系として使用いただく際に欠かせない要素であると考えています。
ーー大きなインパクトですね。
鈴木氏:培地コストという切り口でいえば、創薬支援用の細胞だけでなく最終製品としての医療や食品業界でも、同じような課題を抱えています。例えば、最近よく耳にする再生医療も、細胞の力を利用したもの。より低価格で細胞を培養できれば、より私たちの身近な存在になるでしょう。
また、食品業界でも細胞に注目が集まっています。近年では牛や豚を育てるのではなく、食肉そのものを培養する「培養肉」市場が盛んで、ここ数年でプレーヤーの数は200社以上に。
培養肉は環境への負荷もなく、安全性の高いタンパク源として期待されているのです。私たちの技術でその開発コストが下がれば、さらに市場が広がり、消費者にも手頃な価格で届けられるでしょう。
ーー様々な業界でコストが課題になっていたとのことですが、競合はいなかったのでしょうか?
鈴木氏:培養コストを下げる競合はいます。しかし、彼らとはアプローチが違うため、競合であると同時に共創パートナーにもなり得るんです。
例えば、細胞を大量に培養できる装置を開発している会社に、私たちの培地開発の技術を組み合わせることで、より効率的に培養できる装置を生み出すことができます。現在も、様々な分野の企業と共同しながら、新しいソリューションを開発しています。
創業のきっかけはブラジリアン柔術の先生との出会い
ーー事業内容や強みについてお聞かせいただきましたが、創業の背景についても教えてください。CEO・牧田さんが起業を決意したきっかけをお聞かせいただけますか?
牧田氏:人生の転機になったのは、大学で始めたブラジリアン柔術です。現在マイオリッジのCTOを務めている南一成先生が柔術の先生もしており、そこに通っていました。最初は格闘技の先生だと思っていたのですが、学部4年生の時に「iPS細胞の研究をしているんだけど、アルバイトに来ないか?」と誘われて。その時初めて、iPS細胞由来の心筋細胞の新技術を確立させた先生だということを知りました。
アルバイトで頼まれたのは培養液の交換や、心筋細胞を蛍光顕微鏡で見て変化のデータをとるといった仕事です。しかし、エクセルでのデータ管理が非効率だったので、自動で解析できるソフトを作り喜んでもらったことがあります。大学では土木科でGPSや画像解析の勉強をしていたので、そこで学んだ知識を転用しました。
その後、大学院も土木の道に進んだのですが、進学して1ヶ月ほど経ったときに、南先生から「起業するから社長にならないか」と言われて。不安はあったものの即決し、会社が立ち上がった1年後に大学院も中退しました。
▲株式会社マイオリッジ 代表取締役 牧田直大氏
ーーなぜ南先生は牧田さんに声をかけたのでしょうか。
牧田氏:実は私に声をかける前に、経営経験のある人たちを大学の産学連携本部や京都市の支援機関に頼んで探していたようです。しかし、当時大学から出た条件が「能力が高く、かつ専任できる人」と厳しく、適した人が見つからなかったようです。
南先生が知り合いの社長に相談したところ「学生でいいからやる気のある人を選べばいいよ」と言われ、知っている学生の中で一番真面目だった私に白羽の矢が立ったようです。しかし、即決されるとは思っていなかったらしく、その場で答えを出したら驚かれました。
ーー牧田さんはビジネス経験はなかったんですよね。なぜ即決できたのでしょうか。
牧田氏:正直、深く考えて決めたわけではありません。当時の私はアルバイトしか働いた経験がなかったので、判断材料が何もなくて。
それでも即決できたのは、南先生の人柄が理由です。一緒に格闘技をしていて南先生の人柄は分かっていたので「この人は裏切らない」と信頼していました。研究能力やビジネスの能力についてはわかりませんでしたが、この人なら良いと思いました。
ーー全く経営を知らずに起業して、まずは何から始めたのか教えてください。
牧田氏:まずは事業計画や資本政策を作って、ビジネスコンテストに出たり、大学のインキュベーションプログラムへの応募やVCへのアプローチを行いました。
特に苦労したのは資本政策です。事業計画は南先生の技術を落とし込んでいけばよかったのですが、資本政策については、本を読んでも人に相談しても、内容がそれぞれ違っていて、どれを参考にすればいいか悩みました。
結局は投資家や経営アドバイザーなど、様々な人にご相談に乗っていただき、最終化を行いました。
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起業後、どのように経営の舵取りをしていったのか?続きは明日掲載する【後編】記事をご覧ください。
(取材・文:鈴木光平)
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第2回(前編):細胞培養の常識を変える「培地」開発技術