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キリン×サイキンソーが目指す、「腸内細菌叢検査が当たり前」の世界。”競合”から”共創”への転換はいかに実現したのか?
人間の腸内には多種多様な細菌(フローラ)が存在し、その種類や数の違いがその人の健康課題に関係していることが、近年になって明らかになってきており、腸内細菌に関する事業は、世界的に注目を集めている。
国内においては、キリンホールディングス株式会社(以下「キリン」)と、株式会社サイキンソー(以下「サイキンソー」)の2社が、それぞれ、腸内細菌検査サービス「MicroBio Me」(キリン)と、腸内フローラ検査「Mykinso」(サイキンソー)を提供。2014年設立のサイキンソーは、すでに有力事業者としての評価を確立している。
去る2023年12月、キリンが運営するCVCファンド「KIRIN HEALTH INNOVATION FUND」からサイキンソーへの出資が実行され、両社が資本業務提携を結んだことが公表された(※)。
一見すると、同種のサービスを提供している競合関係にある両社の提携は、どのような経緯により実現されたのか。また、提携から1年以上の月日を経た現在、どのような協業成果が生まれているのか?――両社における提携実現のキーパーソンであった3名、キリンの川久保武氏、津川翔氏、およびサイキンソーの原洋介氏に、協業の舞台裏をうかがった。
※2023年12月配信プレスリリースより
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【写真中】キリンホールディングス株式会社 ヘルスサイエンス事業部 新規事業グループ主務 川久保武 氏
入社後はビールの醸造技術者として研究などを担当。現在は、新規事業グループに所属し、健康に関する新規事業の立ち上げを推進。腸内細菌検査の「MicroBio Me」のプロジェクトリーダーを務めている。サイキンソーとの協業では、キリン側の窓口を担う。
【写真右】キリンホールディングス株式会社 ヘルスサイエンス事業部 新規事業グループ(コーポレートベンチャーキャピタル)主査 津川翔 氏
入社後は酒類の営業を担当。現在はヘルスサイエンス事業部の中の新規事業グループで、CVCやオープンイノベーションに携わる。具体的には、戦略的に親和性が高くシナジーが創出できそうなスタートアップ企業に出資を行い、共創による事業開発を目指している。
【写真左】株式会社サイキンソー 取締役CFO/執行役員 コーポレートディビジョンリーダー 原洋介 氏
2022年12月、CFOとしてサイキンソーに入社。主にファイナンス、資金調達やIPO準備などを担当。それに加え、他社とのアライアンスやオープンイノベーション活動も担っている。
互いに警戒心を抱いていたキリンとサイキンソーは、なぜ手を組んだのか
――今回の協業についてお伺いしていきます。まず最初に、両社の出会い・協業のきっかけをお聞かせください。
キリン・津川氏 : 私の部署では、キリンにおける重要な事業テーマに関して、出資や協業ができそうなスタートアップを常に探索しています。腸内細菌も重要テーマの1つであり、この領域で有名なサイキンソーさんも、当然、以前からベンチマークしていました。
ただ、当社の腸内細菌検査サービス「MicroBio Me」の事業準備自体は、どのような戦略で展開していくか検討が続いており、具体的な協業の議論ができないこともあって積極的に交流ができませんでした。2023年7月に、「MicroBio Me」のサービスが新規事業として立ち上がったのですが、この前後で連携に対する議論を進めることが可能になり、そこから同年12月の出資と業務提携の発表へとこぎ着けることができました。
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――一般的なイメージとして、キリンさんと腸内細菌事業は、やや結びつきにくい印象も受けるのですが、どのような狙いからこの領域に参入されたのでしょうか。
キリン・川久保氏 : キリンでは、酒・飲料などの食領域、薬を扱う医領域の2本に加えて、ヘルスサイエンス領域を3本目の柱として育て、拡大させていくことを長期戦略として掲げています。
ヘルスサイエンス領域の中でも、腸内細菌というのは1つの切り口として非常に面白い領域だと思っています。腸内細菌は、様々な健康課題に関係しており、これから研究も進み、大きな市場拡大余地があると見込んでいます。
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――原さんに伺いますが、キリンさんからのコンタクトについて、サイキンソーさんの社内ではどう受け止められたのでしょうか。
サイキンソー・原氏 : 実は、それより以前に私たちのほうからキリンさんにアプローチをしていたのです。キリンさんがCVCファンドを運用していることは知っていましたから、出資を受けられないかと。ただ、その時には、津川さんや川久保さんまでは届かなかったという経緯がありました。
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――そのときは、津川さん以外のご担当者だったのでしょうか。
キリン・津川氏 : そうですね。出資に際しては、もちろん様々な材料から判断するのですが、当時は私たちの「MicroBio Me」もまだローンチしてないとか、腸内細菌に対する市場の理解も浅いという中で、国内のパートナーを探索するっていうフェーズにはなかったということがありました。
また、社内で「競合だけど、面談して大丈夫なの?」といった話があったことも事実で、なかなか先に話を進められませんでした。
サイキンソー・原氏 : どちらかといえば、私たちがしっかりとした提案をできなかったという面が大きかったのではないかと思います。私たちの社内にも、「キリンさんは、競合ではないか」という警戒感みたいなものがあったことも事実です。それで、津川さんからコンタクトがあった後には、「キリンさんに味方についてもらったらメリットしかない」ということを社内で話し、うちから価値を提供しようと説得していました。
2023年7月に「MicroBio Me」がローンチされた後、実際に検査を受けてみようと思って、社内で受けたい人がいるかと聞いたら、たくさん手が挙がって「やっぱり、みんな気になっていたんだ」と。その一方で、津川さんと川久保さんからは協業案などのお話も出てきて、一気に話が進んでいった感じです。
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▲2023年7月に本格展開を開始した腸内細菌検査サービス事業「MicroBio Me」の検査イメージ(画像:ニュースリリース)
――サービスが競合するのではないかという点に関して、「MicroBio Me」の検査を受けてみての感触はいかがだったのでしょうか。
サイキンソー・原氏 : 営業チームの感触では、“松竹梅”という風に考えたとき、うちの腸内フローラ検査「Mykinso」は“竹”で、「MicroBio Me」は“松”だな、と。「MicroBio Me」は、「Mykinso」と比べてわかることは多いけれど、内容が難しい面もあるし価格も高いから、売るのが難しいのではないかといわれました。
ただ私は、ユーザーが松と竹とを選べるのであればそのほうがいいに決まっていますし、それまでうちがたくさん「Mykinso」を売ってきた実績は絶対に活かせるはずなので、単なる営業連携だけでもすごくメリットがあると感じました。もちろん、お互いのアイデアを出し合って、それぞれのサービスを改良できる部分もあるでしょう。それを社内で説いて回りましたね。
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▲「Mykinso」は、自宅で誰でも簡単にできる腸内フローラ(腸内細菌叢)検査サービス。「腸の健康」への注目を受け、腸内フローラ検査の累計検体数が17万件に到達している。(画像:ニュースリリース)
キリン・川久保氏 : 実は、津川からサイキンソーさんへの出資についての話を受けたとき、私も「検査を売っている会社同士で、どうなのか?」と、少し懐疑的だったのです。
しかし津川から、原さんが今おっしゃられたようにサービスのレイヤーが違うといった話をされた上で、自分たちと違うレイヤーのサービスを理解することも大切だし、手を取り合えば市場を一緒に作っていけるではないかといわれて目から鱗が落ち、一気に前向きになりました。
“競合”から“協業”へと、視座を転換
――まさに「競合から協業へ」と視点が変わっていったというお話をお聞かせいただきました。ただ、やはり実際に2社で事業を進めていくにあたっては、それぞれの社内で様々なハードルもあったのではないでしょうか。
キリン・津川氏 : 出資検討においては社内で様々な議論がありましたが、特に協業の実現性については重要なポイントでした。これは両社が競合サービスを提供する中で、もし協業がうまくいかないと、どちらかというとサイキンソーさん側が大きな不利益を被るであろうという点についての懸念でした。
そこで出資前に「何を、どれだけ、いつまでにやるのか」といった協業イメージを両社でかなり具体的に詰めて、ドキュメントにも残し、これならやれる、大丈夫だという確信が得られたところで、出資が決定されました。
――その協業イメージの具体的な内容を、お話いただける範囲で教えていただけますか。
キリン・川久保氏 : 主に3点あります。1点目は、サイキンソーさんは、約1,500の医療機関と接点を持っていますので、その顧客基盤を活用させてもらって「MicroBio Me」を販売していくことです。数値目標も具体的に決めました。
2点目は、キリン側ではドラッグストアとの接点があるので、そこで一緒に検証をしようということ。3点目が、共創での新サービス開発です。
キリン・津川氏 : 補足しますと、3点目の新サービス開発は技術シナジーということになると思いますが、現時点ではまだ公開できることはあまりありません。
1点目と2点目については、大企業のブランド力があるキリンと、腸内フローラ検査の組織、設備、医療機関への接点を持つサイキンソーさんが手を組んで、双方のサービスを提案しながら市場を作っていくイメージです。
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――サイキンソーさんのほうでは、社内でのハードルという点ではいかがでしたでしょうか。
サイキンソー・原氏 : まず、資金調達という観点では、どこから調達するのかは、CFOである私の管轄事項なので何もいわれません。一方、事業連携という観点では、社内からいろいろ意見を聞かされました。スタートアップとはいえ10年の歴史を持つ会社です。私が入社したのは2022年で、私よりずっと長くいる人もいて、やはり競合の大企業と組むことに対する違和感が出るわけです。
――かなりコンフリクトもあったのではないでしょうか。
サイキンソー・原氏 : もちろん、サイキンソーがそれまでに築いてきた実績を否定する気はまったくありませんでした。しかし、今後も同じやり方ではゆっくりしか伸びていけないこと、そして「キリンさんと組めば爆発的な急成長が可能になる、いまはそのための布石を打とう」ということをずっと話し続けて、理解してもらいました。
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――2023年12月に、資本業務提携のリリースを出された後、社内外からの反応で印象的だったことはありますか。
サイキンソー・原氏 : うちでは、まず投資家からの反応が大きかったですね。「キリンさんが出資したのなら、うちも出そう」といわれて、その後に出資をしていただけた方もいました。それから、腸内細菌業界の他社の人からの見る目が、「サイキンソーは本気でやるんだな」という感じになって、他社といろいろな話をしやすくなったこともあります。
キリン・津川氏 : キリンでは、社内で腸内細菌事業に興味を持ってくれる人が増えたことが大きな変化でした。社内広報・社内ブランディングの一環として、サイキンソーさんと一緒に腸内細菌の勉強会を開催させてもらったりしていますが、その参加希望者が非常に増えたりとか、それこそ「私も検査を受けてみたい」と申し出てくる人が増えたりとか。
――提携から1年経ちますが、現時点での具体的な成果には、どういったものがあるでしょうか。
キリン・川久保氏 : キリン側からすると、一番の成果は営業連携による顧客開拓でしょうか。サイキンソーさんのご紹介施設は、販売経験が豊富で販売量も多い施設が多いのです。そこから得られるデータから、どんな施設でよく検査が出るのかということを勉強させてもらっています。
キリン・津川氏 : どんな医療施設からの反応が大きいのかなどを学ばせてもらって、それが私たちの事業戦略策定にフィードバックされている面もあります。また、サイキンソーさんが、フットワーク軽くいろいろなことを試されているので、そこに入らせてもらっています。例えば、地方自治体との取り組みなどです。
サイキンソー・原氏 : これは先日、大阪の泉大津市で、補助金が出る「女性特有の課題を解決する健康プログラム」の公募があって、そこにサイキンソーが取り組んで、キリンさんにも協賛企業で入ってもらったものですね。私たちだけでは難しかったかもしれませんが、最初の段階からキリンさんに入ってもらって採択されました。
キリン・川久保氏 : これは私たちにとっても、非常にいい取り組みでした。健康意識が高い女性たちと長期にわたって深い接点を持って、腸内フローラ検査がどんな風に受け止められるか、それを受けてどのような行動変容が起こるかといった、興味深い知見がたくさん得られました。
私たちだけだったら、腸内細菌事業で自治体のプログラムにエントリーしてみようという発想が出なかったでしょう。サイキンソーさんのようにパッと公募に申し込むといった素早い動きはなかなかできないので、スタートアップならではの動きの軽さをありがたく感じました。
協業の難しさと、それを乗り越えた先の展望
――協業していく上での難しさを感じている部分があったら教えてください。
サイキンソー・原氏 : 最初のころは、私たちの社内に遠慮みたいなものがあって、「本気度」をなかなかキリンさんに伝えられていないのではないかと、もどかしさを感じることがよくありました。社内の会議なら熱く語るはずなのに、キリンさんとの会議では遠慮して語れなくなるとか、少し受け身の姿勢になる、のように。
「それじゃだめだ、キリンさんは、どうしてこれをやってくれないんですか」くらいのことを、遠慮無くぶつけて、お互いのハートに火をつけようとハッパをかけて、社内のマインドを変えていくのが大変でした。
キリン・川久保氏 : やっぱり、しばらくは互いに遠慮している「お見合い」みたいな期間がありましたよね。また、私たちの側でいうと、単純に忙しくてリソースが不足しがちという問題はありました。
腸内細菌で市場を作っていくためには、2社だけではできなくて、もっと広範にいろいろなプレイヤーを巻き込んで盛り上げていきたいのですが、なかなかそこまではできませんでした。1年動いて、最近になってようやくいろいろな接点が見えて、それが動き出してきた感じです。
――それは楽しみですね。では最後に、少し長期的なスパンでの展望を教えてください。
サイキンソー・原氏 : いわゆる健康診断などが「2次予防」で、健康のために体を動かすなどの活動を「1次予防」としたとき、そのもっと手前の、普段の暮らしの中で健康を維持することを「0次予防」と呼んでいます。
私たちは10年かけて、腸内フローラ検査の会社として認知度を上げてきましたが、キリンさんと組んだことで、今後は腸活を含めた「0次予防」の会社を目指すことがひとつの目標です。そこでの市場創出を進めていきたいですね。
キリン・川久保氏 : 私たちは、腸内細菌を調べることが当たり前の世界を作っていきたいと思っています。「MicroBio Me」はハイエンドな検査ですが、サイキンソーさんと組んだことで、もっと手軽な検査も扱えるようになりました。
それで今は、自分なりに、こんな風に市場を作っていけそうだというのが、見えてきています。日本人にあった腸内細菌検査を磨いていき、誰もが利用する健康インフラとして確立させていきたいと思っています。
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取材後記
資本業務提携の前に両社内において危惧されていたように、大企業とスタートアップが協業やオープンイノベーションを検討する場合、事業領域が近ければ近いほど、リスクが意識されるだろう。しかし、今回の連携からは、事業領域は重なっていても、詳細に見れば事業のレイヤーが異なるのであればリスクは小さく、営業連携によるシナジーなどの具体的なメリットのほうがはるかに大きくなることが示された。
また今後は、共同研究の進展による新製品、新サービスの開発も期待される。まだまだ小さい腸内細菌検査市場において、有力プレイヤー2社が手を組んだ今回の連携により、市場拡大の速度が加速していくことは間違いないだろう。今後の動きが楽しみだ。
(編集:眞田幸剛、文:椎原よしき、撮影:齊木恵太)