【ICTスタートアップリーグ特集 #19:signers・那珂慎二氏】手話映像と字幕を同時に投影できるARグラス型補聴器を開発し、聴覚障害者や手話通訳者を取り巻く課題の解決を目指す
2023年度から始動した、総務省によるスタートアップ支援事業を契機とした官民一体の取り組み『ICTスタートアップリーグ』。これは、総務省とスタートアップに知見のある有識者、企業、団体などの民間が一体となり、ICT分野におけるスタートアップの起業と成長に必要な「支援」と「共創の場」を提供するプログラムだ。
このプログラムでは総務省事業による研究開発費の支援や伴走支援に加え、メディアとも連携を行い、スタートアップを応援する人を増やすことで、事業の成長加速と地域活性にもつなげるエコシステムとしても展開していく。
そこでTOMORUBAでは、ICTスタートアップリーグの採択スタートアップにフォーカスした特集記事を掲載している。今回は、聴覚障害者の情報アクセシビリティの向上を目指し、シースルー型ARグラスに遠隔手話通訳映像や字幕を投影する新しい形態の補聴器/アプリケーションの開発に取り組んでいるsigners・那珂 慎二氏を取り上げる。起業に至った背景、解決したい聴覚障害者および手話通訳者の課題、今後の事業の展望について、那珂氏に話を聞いた。(※2024年にsignersは法人化を予定)
▲signers 那珂 慎二 氏
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<スタートアップ解説員の「ココに注目!」>
■眞田幸剛(株式会社eiicon TOMORUBA編集長)
・2024年に法人化予定のフレッシュなスタートアップですが、代表者の那珂慎二氏は、札幌市主催の高度エンジニア発掘・育成プログラム 「STAND OUT 2022」でオーディエンス賞、総務省・経済産業省主催「NoMaps Dream Pitch 2023」で優秀賞・特別賞、一般財団法人品川ビジネスクラブ主催・品川区共催「第14回ビジネス創造コンテスト」で最優秀賞・グローバルビジネス賞・ATR賞を受賞されています!
・同社が開発を目指す「補聴グラス」は、シースルー型ARグラスに遠隔手話通訳映像や字幕を投影する新しい形態の補聴器。聴覚障害者自身の聴力や第一言語に合わせて手話通訳か字幕を選択し、リアルタイムで会話内容を変換・投影するデバイスです。
・まずは国内での提供・普及を目指していますが、字幕に関しては言語エンジンを載せ替えるだけで外国語の翻訳ができるため、グローバル展開も見据えているとのこと。日本のみならず世界中の聴覚障害者をサポートできる可能性もあり、多くの人々の注目を集めそうです!
起業家精神とプログラミング技術を身に付け、聴覚障害者の課題にアプローチ
ーーまずは起業の背景について教えてください。
那珂氏 : 屋号であるsigners(サイナーズ)には「手話話者たち」という意味があり、聴覚障害者向けサービスの開発・提供を目指しています。私の妻はまったく耳が聞こえない全聾者であり、普段は手話で会話をしています。友人にも聴覚障害者が多く、日頃から彼らの悩みや苦しみを目にしてきたことが、起業の直接的な背景となっています。
ーー起業に至るまでのキャリアついても聞かせてください。
那珂氏 : 私は幼少期からいわゆる宗教2世として、大学はおろか、幼稚園にも通えない、教育が制限された環境で育ちました。とはいえ、誰かの役に立つことを学びたいと願いがあったため、15歳の頃に手話に興味を持ち、本を買って独学で勉強しました。今から12年ほど前に、破門され、ようやく脱却することができましたが、家族や友人と一切連絡が出来ない状態となり、職を転々としていたとき、以前学んだ手話の仕事をしたいと考え、聴覚障害者団体で勤務しました。その聴覚障害者団体では、手話通訳者を派遣する部署で働いていましたが、既存の団体・組織の中だけでは解決しきれない課題があることに気づいたのです。
その後、2021年11月に「G's ACADEMY」という起業家・エンジニアを養成するスクールに入校しました。そこで様々な人たちと一緒に起業家精神やプログラミング技術を学ぶ中で、「聴覚障害者の方々のためのプロダクトやサービスを開発し、それを流通させることで新しい道が開けるのではないか」と考えたのです。
ーー聴覚障害者団体で課題を見つけ、「G's ACADEMY」で課題を解決するための思考や技術を身に付けられたのですね。
那珂氏 : そうですね。「G's ACADEMY」は弁護士や税理士、大企業や外資系コンサルティングファームの方々など、周りは優秀な人たちばかりでしたが、私も「何とか食らいついて行かなくては」と考えていたので、仕事をしながら授業とは別に最も多い時期で週間90時間超は勉強をしていたと思います。毎週新しいアプリを一から考えて設計し、プログラミングし、完成させるというプロセスを半年間続けていたので、プログラミング思考やUI/UXに関する感覚なども相当鍛えられたと思います。
汎用ARグラス向けアプリケーションの開発とデバイス開発を並行して進めていく
ーーsignersが開発されているプロダクト、リリースを目指しているサービスについて教えてください。
那珂氏 : ARグラスに遠隔手話通訳映像や字幕をリアルタイムで投影する「補聴グラス」の開発・提供を目指しています。とはいえデバイスの開発には相応の時間が掛かるため、現時点では汎用のARグラスに接続することで遠隔手話通訳映像や字幕の表示を可能にするアプリケーションの開発を進めています。
ただし、現状の汎用ARグラスはゲームや映画視聴などのエンタメ用途がメインのデバイスなので、補聴器や車椅子のように福祉用具としての助成金対象にはならず、グラスを購入するには全額を自己負担で支払わなければなりません。
そのため当社では、アプリケーションの開発とデバイスの開発を同時並行的に進めていき、なるべく早いタイミングで助成金の対象となるような「補聴グラス」を完成させたいと考えています。他の福祉用具と同じように厚生労働省の助成金の対象となれば、10%程度の自己負担率で購入できるようになり、より多くの方々に使っていただきやすくなります。
「補聴グラス」で解決を目指す聴覚障害者と手話通訳者の課題とは
ーー「補聴グラス」のデバイスやアプリケーションは、聴覚障害者の方々が抱えるどのような課題を解決できるのでしょうか?
那珂氏 : 現在聴覚をサポートする機器として一般的に用いられているのは補聴器です。しかし、聴覚障害者は補聴器を装着しても、ある程度の「音」は聞こえるようになりますが、「声」を聞くことはできません。また、聴覚障害者は手話と音声日本語(口話・字幕・筆談など)のどちらも使えるかというと、そうではありません。幼少期から手話を第一言語として育ってきた場合、文法がまったく異なる日本語の文章の理解が難しい方も多く、逆に成長してから聴覚に障害を抱えるようになった方は手話がわからない方がほとんどです。そのため、「補聴グラス」では、手話と字幕のどちらも選んで表示できるようにしました。
手話を第一言語とする聴覚障害者の方々にとって、遠隔手話通訳派遣サービスと紐づいた補聴グラスを使うことで、気軽に手話通訳サービスを使えるようになります。現状、国や行政が無料で手話通訳者を派遣してくれるサービスもありますが、税金で運営されていることもあり、ルールがかなり厳しいんです。
聴覚障害者の方が病院に行くとき、役所に行くときなど、重要なイベントの際には無料で派遣してもらえるのですが、たとえば文化・教養に関するような料理教室、講演会、セミナーなどに参加する際は、聴覚障害者の方が自費で負担しなければなりません。かといって講演会やセミナーの開催者側に負担してもらえるかと言えばそれも厳しい。そのため聴覚障害者の方々は、そのような場所に出向くことに消極的になりがちであり、結果として引きこもりやうつ病になってしまう人も少なくありません。
当社が開発している「補聴グラス」が気軽に使えるような環境になれば、聴覚障害者の方々も、いろいろな場所に積極的に出掛けられるようになるはずです。「補聴グラス」を介した聴覚障害者の方の活発な人的交流を支援することで、彼らが抱えているストレスや不安感を少しでも取り除いていきたいと思っています。
ーー手話通訳者の方々が抱えている課題についてはいかがですか?
那珂氏 : 手話通訳者の方々は、各自治体から準職員のような形で雇用されています。そのため、他の自治体から申請や要望が来ても出向いて行けないという問題があります。基本的には自分が雇用されている自治体内でしか活動ができないのです。
当然、活動エリアが狭ければ派遣の回数も少なくなります。手話通訳者の平均月収は概ね4〜5万円程度であり、それでは食べていけません。そのため平日の昼間は別の仕事をして、土日祝日だけ手話通訳をしている方がほとんどです。ただ、聴覚障害者の方々が手話通訳を必要とするのは平日の昼間に病院や役所に行くタイミングなので、その時間帯には手話通訳者が足りなくなってしまうことも多いんです。
このような制度上の問題は、コロナの流行によって遠隔手話通話が少しずつ浸透し始めたことにより解消されつつありますが、私たちが「補聴グラス」を普及させることで、この流れをさらに強力に推し進めていきたいと考えています。全国の手話通訳者がエリアに縛られずに活動できるようになれば、手話通訳を本業にできる人たちも増えていくはずですし、曜日・時間帯による手話通訳者不足も解消できると考えています。
「補聴グラス」は、場所や地域を選ばすに世界中で使えるサービスになり得る
ーーサービスやプロダクトに関して、これから乗り越えなければならない課題があれば教えてください。
那珂氏 : 先ほど「全国の手話通訳者がエリアに縛られずに活動できるようになれば…」とお話ししましたが、実はここに一つ課題があります。手話にはいくつもの方言があり、単語によって手の形や動きなど表現が異なるのです。
そのため、たとえば沖縄の手話通訳者が画面に出て来て手話をしても、北海道の聴覚障害者には理解できないというケースが出てくることになります。そのためサービスを全国的に広げていく過程では、聴覚障害者各自に合った最適な手話通訳者を自動でマッチングするような機能を搭載する必要も出てくるでしょうね。
ーー今後の中長期的な事業展開について教えてください。signers は、これから5年後、10年後、どのような世界を作っていきたいのでしょうか?
那珂氏 : 現在流通している補聴器は、時間をかけてデジタル化が進められてきたものの、まだまだ不十分な点がたくさんあります。補聴器を使うことで車のクラクションやサイレン音は聞こえやすくなるものの、人の声に関してはゴニョゴニョと増幅されるだけでまだまだ聞き取りにくいのです。
私たちは「音は補聴器で聞く、声は補聴グラスで聞く」という組み合わせを、聴覚障害者の方々にとって当たり前の環境にしていくことを目指していきます。
ーーグローバル展開についてはどのように考えていますか?
那珂氏 : WHO(世界保健機関)の発表によると、2050年には世界人口の4人に1人が聴覚障害者になると予測されています。聴覚障害者が増える理由については、加齢によって耳が遠くなる高齢者が増えることはもちろん、イヤフォンやヘッドフォンで日常的に音楽を聞いている若い世代の難聴が増えていることも要因に挙げられています。このような多くの聴覚障害者を「補聴グラス」でサポートしていかなければならないと考えています。
私たちのシステム・サービスは、基本的には日本国内からのスタートになります。ただし、字幕に関しては言語エンジンを載せ替えるだけで、簡単に外国語の翻訳ができるようになります。あとは手話通訳者とのマッチングも含めた遠隔手話通話の仕組みさえ構築することができれば、場所や地域を選ばすに使えるサービスになり得ると考えているので、ゆくゆくは世界中の聴覚障害者の方々に使っていただけるものにしていきたいですね。
取材後記
那珂氏は取材において「これまでも国内外の大手企業が聴覚障害者向けのサービスを作ったが、ビジネスとしての継続的な提供が難しく、いつの間にかシュリンクしてしまったものも少なくない」と語っていた。確かにマネタイズが難しい分野ではあるが、那珂氏が目指す世界観やイノベーションは、近年世界中で叫ばれているダイバーシティ&インクルージョンの実現に資するものであることは間違いない。多くの企業や人々が協力し合い、互いに知恵を出し合うことで、聴覚障害者の方々の課題やペインを解決する同社の事業が軌道に乗ることを願ってやまない。
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(編集:眞田幸剛、文:佐藤直己)