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コード製造会社 3代目社長の軌跡 世界いちのキャビアを創るまで【前編】

コード製造会社 3代目社長の軌跡 世界いちのキャビアを創るまで【前編】

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家業を継いでから新たなビジネスチャンスにチャレンジする「ベンチャー型事業承継」。業態転換や新規事業に挑んだ跡継ぎベンチャーを取材し、その経験とノウハウを発信するのが「事業承継の原体験とイノベーション」です。

第2弾となる今回は1932年創立の金子コードの3代目代表・金子 智樹氏にインタビュー。電話コードなどの開発・製造会社として創業した同社が、現在注力しているのがキャビアをはじめとする食品事業です。同社のキャビアはエリザベス女王や多くのハリウッドスターをはじめとした富裕層の舌を唸らせ「世界一のキャビア」と口を揃えて評されています。

老舗の町工場だった金子コードがなぜ畑違いの食品業界に参入したのか。小さな頃から経営を間近で見てきた金子氏の哲学を掘り下げました。


▲金子コード株式会社 代表取締役社長 金子智樹氏

1990年4月、金子コード株式会社入社。1994 年シンガポール現地法人の初代社長に就任。以来、中国生産拠点の金子電線電信(蘇州)有限公司と併せた海外事業の責任者としてグローバル営業・経営に従事。2005 年 代表取締役社長に就任。2013 年 JSA のワインエキスパート資格取得。キャビア事業など、自社の新規事業を牽引している。2020年ノーベル・サスティナビリティー・トラスト・ジャパン理事長就任。

入社後すぐに頭角を現し、海外進出の責任者へ

経営者の父と祖父を持つ金子さんの幼少期の話を聞かせてください。

金子氏 : 私は10歳まで、金子コードの創業者である祖父と一緒に住んでいて、小さなころから「お前が会社を継ぐんだぞ」と言われて育ちました。祖父や父はもちろん、母や祖母も「中小企業の経営者とはこういうものだ」とことあるごとに言われていましたね。

英才教育ではありませんが「中小企業の社長は持ってる資源をうまく活用して経営をするんだ」「景気が悪い時こそ投資するチャンス」と、経営者としての考え方を叩き込まれました。当時はピンときていなかったものの、経営に携わるようになってからそれらの言葉が身にしみますね。

金子コードにはいつ入社したのでしょうか。

金子氏 : 大学を卒業してすぐです。跡継ぎとして入社はしたものの、特別扱いされるのが嫌で、他の新入社員と同じように電話のコードの営業からキャリアをスタートしました。

我武者羅に働いた結果、営業成績も伸びて27歳の時にシンガポールで働くことになり、これがキャリアの転機となりました。

なぜシンガポールに行くことになったのでしょうか?

金子氏 : 販路を拡大するためです。当時は電話コードの事業が主力で、携帯電話の登場により、このままでは将来がないと危機感を抱いていました。そこで先代が始めたのが新規事業と海外進出です。先代が始めたメディカル事業はその後、会社のピンチを救い、今の経営の柱となりました。

海外進出では、シンガポールの企業とJVを立ち上げ、その責任者として白羽の矢が立ったのが私です。しかし、チャンスだと思って向かった現地のオフィスにあったのは、JVの製造現場と私の部屋だけ。シンガポールで何をするのか、ゼロから考えなければいけませんでした。

初めての異国の地でのビジネスに苦戦はしたものの、結果的に当時の学びが今の経営哲学の基礎となっています。

今の経営哲学の基礎を作ったシンガポールでの学び

シンガポールで学んだことを教えてください。

金子氏 : 一番学びになったのはスピードです。日本でもスピードを意識はしていたものの、海外ではいかに私たちがノロマであるかを痛感させられましたね。すべての判断をその場でせねばならず、ゆっくり考える暇なんてありません。

日本のように「一度社に持ち帰って」などと言っていたら相手にされませんし、東南アジアの人たちは日本のビジネスマンのそのような対応に嫌気が指していました。日本では「石橋を叩いて渡る」ことが美徳とされていますが、海外では誰よりも早く橋を渡って、橋を叩き壊すのが鉄則。

最初はそのスピードに慣れるのに苦労しましたね。

質を下げずにスピードだけを上げられるものなのですか?

金子氏 : そのために普段から常に学んでいなければなりません。世界の経営者が即断即決しているのは、決していい加減に決めているのではなく、常日頃あらゆる事態を想定しているからすぐに決断できるのです。

また、自分の領域のことだけを見ていても学びは深まりません。他の業界のことを知って、初めて自分たちの業界のことがわかってきます。新入社員の時は先輩に「電線の営業とはこういうものだ」と言われて鵜呑みにしていましたが、そうやって知らず知らずのうちに業界の常識に染まり視野が狭くなっていたんです。

自分たちが当たり前だと思っていたことが、実は他の業界から見るととても非効率であることは珍しくありません。常に視野を広く持って、一番成功に近い道を選ぶ。その考え方を20代で学べたのは大きな収穫でしたね。

シンガポールでの実績も教えてください。

金子氏 : 約3年で東南アジアにおける電話コード市場の約8割を占め、中国への進出も果たしました。海外での売上はもちろんのこと、海外での仕事は日本に帰ってからも大きな実りをもたらしてくれました。

シンガポールでは日系の大企業とも一緒に仕事をしていたのですが、海外赴任をするような人たちは出世頭で、日本に帰ってからそれなりにポジションに就いています。日本に帰ってから「あの時はお世話になりました」と連絡すると、国内でも仕事相手になってくれたんです。

なぜ海外でそれほどの実績を挙げられたのですか?

金子氏 : 売れない理由を潰していったからです。海外で電話コードを営業していたとき、どうしても価格で現地の競合に勝てませんでした。私たちが原価80円の商品を100円で販売しているとしたら、現地は原価20円の商品を売っているのですから。

しかし、他社が安く作れるなら私たちが安く作れないわけがありません。価格で断られても「1年後に私たちが同じ値段で、質のよい商品を作るので待っていてください」と言っていました。

早速、工場に問い合わせて「原価20円で作ってください」と言って直談判したんです。もちろん無理と言われるのですが、そこからできない理由を掘り下げていきます。そうやってできない理由を一つずつ潰していき、1年後には海外と同じ原価で作れるようになりました。

原価が同じなら、よりよい商品を作れるのが日本企業の強み。おかげで現地での売上を大きく伸ばし、アジアの市場を独占しました。当時、営業だけでなく製造にまで踏み込んだことで、事業をマネジメントする感覚を身につけたのです。


社長の右腕として会社を継ぐための準備を進めた数年間

海外で大きな実績を挙げて日本に帰ってきたわけですね。その後、どのように事業承継を意識したのでしょうか?

金子氏 : シンガポールから帰った時は、会社を継ぐ自信と覚悟はできていました。入社した時から、いつかは会社を継ぐとは思っていましたが、自分自身が会社を継ぐに値する人間になるまでは継げないと思ったのです。

日本でいくら営業成績を出しても、その自信がつくことはありませんでしたが、シンガポールでの成功体験が私を変えてくれたのです。日本に帰ってきてすぐに取締役となり、先代の右腕として経営に携わるようになりました。

その頃から事業承継のために心の準備を始めたのですね。

金子氏 : 先代とも話し合いながら、いつどのように会社を継ぐのが最適か話し合いましたね。事業承継で最も大事なのはタイミングで、ある日突然会社を継いでも成功するわけがありません。私は34歳で取締役になってから、自分が継いでからどんな会社にするかイメージを固め、そのための準備を始めたのです。

先代も65歳で経営を私に譲るつもりでしたが、当時業績が過去最悪。その状態で私に経営を渡すことはできないと、最悪の状態を乗り越えてから67歳で私に経営を譲ってくれました。

会社を継ぐにあたって、どのような準備をしていたのか教えてください。

金子氏 : 人材を見定めながら、自分の右腕や味方になってくれる人を探していました。先代と一緒に会社を盛り上げてきた人の中には、どうしても先代の時代のやり方に固執する方もいます。どの人なら自分と同じ目線で会社を作っていってくれそうか見定めて、会社を継ぐ前から自分が経営しやすい環境を作っていったのです。

同時に、新規事業に向けての雰囲気作りも始めました。先代も新規事業で会社を救ったので、みんな新規事業の重要性はわかっていたものの、新しいことを始めるのはどうしても抵抗があります。そのため、会社を継ぐ前から新しいことを始める雰囲気づくりをしていたのです。

そのため、会社を継いだ時の所信表明で話したのは「突然新しいことを始めるつもりはない」ということ。それまでも先代の右腕として経営に携わってきたので、会社を継いで経営方針を大きく変える必要がなかったのです。

それでは、スムーズに事業承継できたのですね。

金子氏 : いえ、そんなに準備はしてきても、実際に会社を継いでみると想像通りにはいきませんでした(笑)。それまでは社長の右腕をしていましたが、所詮右腕は右腕。みんな先代のカリスマ性に惹かれていたので、私のことは見ていなかったんですね。

それからはどうしたらみんなの信頼を得られるか、言動にも気をつけながら経営をしていきました。自分がどう話したら、みんなにどんな影響がでるのか。彼らはどんな未来に導けるか。会社を継いだ当初はそんなことを考えていましたね。

* * * *

事業継承後、金子氏はどのように新規事業に挑戦していったのか?続きは明日掲載する【後編】記事をご覧ください。

(取材・文:鈴木光平、撮影:加藤武俊)


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第1回:リサイクル会社の4代目社長が手掛ける業界のDX。ITを駆使した循環型社会とは

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  • 奥田文祥

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  • 眞田 幸剛

    眞田 幸剛

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