“パーソナルヘルスレコード”が変える医療の未来―アストラゼネカとWelbyの共創でがん患者の課題解決を実現
「患者中心」のビジネスモデル実現を目指すヘルスケア・イノベーション・エンジン「Innovation Infusion Japan, i2.JP(アイツードットジェイピー)」。製薬メーカーであるアストラゼネカの日本法人が、「医薬品以外でも自分たちにできることはたくさんある!」という想いのもと、昨年11月に立ちあげたオープンなコミュニティだ。ビジョンに共感する100社以上の企業・団体が参画中で、その数は増え続けているという(2021年8月現在)。
TOMORUBAでは、「i2.JP」の取り組みを追うべく「医療改革への挑戦」という連載企画を開始。本企画では、「i2.JP」の設立メンバーや参画パートナーたちの声を通して、未来の医療とはどうあるべきかを考え、迫っていく。
第2回は、アストラゼネカと戦略的パートナーシップ契約を締結したWelby(ウェルビー)との共創事例を紹介。Welbyは、PHR(パーソナルヘルスレコード ※1)の社会実装を目指す企業で、製薬メーカーなどと共に約30件にも及ぶ共同プロジェクトを進めてきた実績を持つ。
両社は2020年6月、アストラゼネカが開発・展開する抗がん剤を服用中の患者向けに、服薬状況の自己管理を目的としたアプリを共同でリリースした。そこで今回は、各社担当者に、アプリを開発した背景やビジョン、共創プロセス、今後の展望に加え、PHRを取り巻く現状と課題について聞いた。
※1: PHR(パーソナルヘルスレコード/Personal Health Record)とは、個人の健康診断結果や服薬履歴といった健康情報などを電子記録として本人や家族が正確に把握するための仕組み。
【写真左】アストラゼネカ株式会社 オンコロジー事業本部 肺がん(EGFR)領域 マーケティング アソシエイトブランドマネジャー 末廣亮太氏
2007年、アストラゼネカ株式会社に入社。オンコロジー領域のMR(医薬品情報担当)として経験を積む。2016年より肺がんのスペシャリストグループ、2020年より肺がんのマーケティングとしてMR活動の戦略プランニングや実行サポートを担う。本アプリの開発・展開をリード。薬剤師資格保有。
【写真中】アストラゼネカ株式会社 コマーシャルエクセレンス本部 カスタマーエンゲージメントトランスフォーメーション部 ビジネスパートナー マネジャー 髙嶋一輝氏
大学卒業後、証券会社に入社。その後、医療機器メーカーに転職し、営業やデジタルマーケティングの立ち上げを担当。2019年9月にアストラゼネカ株式会社へと転職し、オンコロジー領域のオムニチャネル推進に従事。Welby社との戦略的パートナーシップの締結、共創プロジェクトの推進などを担当。
【写真右】株式会社Welby 執行役員 営業部 部長 五百川彰仁氏
大学卒業後、エーザイ株式会社に入社しMRを経験。その後、株式会社エス・エム・エスに転職し、薬剤師向けの事業開発に従事。2015年9月よりWelbyに参画。2018年1月 執行役員・疾患ソリューション事業部 事業長に就任。2021年7月より現職。製薬企業などとのPHRサービス共同開発をリード。薬剤師資格保有。
患者中心医療の実現において、「PHR」が重要な役割を担う
――2020年6月、両社は戦略的パートナーシップ契約を締結されましたが、どのように出会い、どのようなビジョンの一致があって、パートナーシップ締結へとつながったのでしょうか。
アストラゼネカ・髙嶋氏: Welbyさんとは2014年に、生活習慣病に関する健康管理アプリ「まいさぽ」を共同でリリースしました。以来、7年近くおつき合いがあります。Welbyさんは、ミッションとして「Empower the Patients」を掲げておられ、特にテクノロジーやデータを用いた患者中心医療の実現に注力されています。私たちアストラゼネカも、Our Valueにおいて「患者さんを第一に考える」ことを掲げているため、根本の部分で一致したことが前提としてあります。
私たちは、患者さんや医療従事者の方々に対するサービスを充実させることで、医薬品の適正使用に貢献していくことを目指してきました。その中の重要なサービスのひとつが、PHR(パーソナルヘルスレコード)だと考えています。
Welbyさんが日本で先行してPHRに取り組んでおられることや、もともとおつき合いがあったことから、2020年に、戦略的パートナーシップ契約を締結することになりました。
――PHRという言葉がキーワードとして出てきましたが、この領域の現状について、国内における第一人者であるWelby社からお聞きしたいです。
Welby・五百川氏: PHRという仕組み自体は、もともと日本よりアメリカや北欧が先行して取り組んでいます。日本にこの仕組みを実装するため、当社が2011年に立ち上がり、取り組みを進めてきました。私はWelbyに入社して6年目になりますが、6年前だとスマートフォンが今ほど浸透していませんでした。また、スマートフォンを活用した患者さん向けの施策も、それほど取り組まれていませんでした。
そうした中、2014年に私たちWelbyが初めて一緒に取り組ませていただいたのが、アストラゼネカさんです。先ほどお話に出た「まいさぽ」という健康管理アプリを一緒にリリースしました。おかげさまでそれ以降、当社は様々な企業と約30件のプロジェクトを進めています。徐々にPHRが日本にも浸透してきたという印象です。
浸透してきた要因は2つあると思っていて、ひとつはスマートフォンの普及。もうひとつは、患者中心医療を実現していこうというトレンドで、「治療は患者さんのものだ」という考えが、製薬会社さんの中でも強まってきているように感じます。
――先行するアメリカなどと比較して、日本の状況はいかがでしょうか。問題点があるとしたら、どこなのでしょうか。
Welby・五百川氏: アメリカなどの海外と比較すると、日本はかなり遅れていると思います。日本の問題点は、電子カルテの普及率です。患者さんの医療レコードを一番たくさん保有しているのがカルテですが、日本ではまだ紙のカルテを使っている医療機関が数多く存在します。
また、例えばアメリカの場合、基本的に電子カルテはクラウド型になっていて、病院間の連携がシームレスにつながっています。一方で日本の場合は、オンプレミス型という外部のネットワークに接続しにくい仕組みが主体であり、病院毎にカルテが閉じています。そのため、患者さんの情報を外に持ち出しにくい、ポータビリティが低いという課題があります。
――そうした状況になってしまった根本要因は?
Welby・五百川氏: 私見になりますが、日本には全体最適をとらえたリーダーシップがなかったからだと思います。例えばアメリカでは、電子カルテによる医療の効率化,情報の活用を目指して、国が主導する形で導入を推進してきました。一方で日本は、それぞれの医療機関や企業単位で電子カルテを構築するという発想で進んできたため、病院ごとに独自の電子カルテシステムが構築されています。同じITベンダーが開発したものであっても、それぞれが独立しているのです。
独立している中で、電子カルテを横につなげようという発想が、後になってから出てきています。途中で軌道修正をしている難しさが、日本にはあると思いますね。これに対してPHRは、患者さんに健康情報を返すことで、患者さん自身が自分の健康情報を持ち歩き、それを治療に活かすことができる仕組みで、私たちはそういった発想で取り組んでいます。
共創で生まれた「服薬・自己管理アプリ」、両社に聞く開発秘話
――2020年6月、アストラゼネカとWelbyがPHRをベースにしたデジタル活用を推進する 戦略的パートナーシップ契約を締結し(参考:https://welby.jp/category/news/200603160000.html)、アストラゼネカが開発・展開する抗がん剤服用中の患者向けに服薬・自己管理アプリを共同でリリースされました。どのような背景から生まれたアプリなのですか。
アストラゼネカ・末廣氏: 私が入社した時に「がんになっても、がん患者さんやご家族の”希望と当たり前の生活”を目指して」ということを掲げており、私自身も共感をしています。現在、肺がんは患者さんの遺伝子変異タイプに合う薬剤の開発が進み、臨床導入されています。それに伴い、患者さんの予後が改善されると同時に、治療期間も伸びています。患者さんが、これまでの生活を続けながらがんの治療をする事を念頭に置いたとき、副作用を最小限に抑えながら治療を継続することが重要です。
もちろんこれまでも、当社はこの課題に取り組んできましたが、スマートフォンやデジタル技術を活用して、何かできるのではないかと考えたことが、本アプリ開発の起点にあります。デジタル技術を活用して、より患者さん自身が治療に参画できるようにし、副作用の早期発見・早期介入へのサポートを目指して取り組んできました。
――どのように、プロジェクトを進めてこられたのですか。
アストラゼネカ・末廣氏: 開発のフェーズと普及のフェーズに分けてお話ししますね。まず開発のフェーズに関してですが、私たちはアプリを開発した経験がなかったため、Welbyさんとすり合わせをしながら仕様を決めていきました。
その中で注意した点ですが、最終的には患者さんが使うアプリではあるものの、その前段階で医療従事者から患者さんに紹介してもらう必要があります。そこで、患者さんだけではなく、医療従事者からもアドバイスや意見をいただきながら、作って終わりではなく継続して使ってもらえるものを指して開発を進めました。
また、本アプリの対象とする抗がん剤を服用する患者さんの約半数以上が75歳以上になりますので、こだわりすぎて複雑なアプリにするのではなく、画面の視認性のよさや入力のシンプルさを意識しました。すでにある紙の服薬手帳をベースに、その使いやすさを残しつつ、アプリにしかできない機能を加えて完成させました。
――「アプリにしかできない機能」というのは、具体的にどのようなものですか。
アストラゼネカ・末廣氏: 例えば、患者さんご自身でセルフケアについて学べる動画コンテンツや、気になる症状を写真で残しておける機能や服用を忘れないようにするアラート機能があります。
――五百川さんは、開発のフェーズにおいて苦労されたことなどはありましたか。
Welby・五百川氏: 当社としては、「そもそも服薬の説明がどのようになされているのか」「その中で、患者さんはどういったことが辛いのか」をしっかりと把握することから始めました。そのうえで、こちらからも「こういう使い方はどうでしょうか」と提案をしながら、開発を進めたという流れです。既存の診療がどうなっていて、そこに「本アプリ」が加わることで、どう変わるのかをデザインしていくことが、もっともチャレンジングでした。
――普及のフェーズについても、お伺いしたいです。
アストラゼネカ・末廣氏: 規制の観点から私たちが直接、このアプリを患者さんに紹介できないので、医療従事者を介して紹介をいただく事になります。医療従事者にとっても、治療にアプリを活用することはあまり経験のない事なので、先生方の中には、「アプリ=難しい」というイメージをお持ちの方も多く、まずはその先入観を解くことに注力しました。
アプリの中身を見ていただいて画面のシンプルさを実感していただいたり、アプリにしかできない機能をご案内したり、患者さんに有益であることを説明することで、「だったら、使ってみてもいいね」と肯定的に受入れていただくケースも増えていきました。
――五百川さんは、いかがですか。
Welby・五百川氏: 当社として提供できるものは、過去のプロジェクトから得た知見です。過去にはたくさんの失敗もしてきたので、進捗が止まりやすいポイントをアストラゼネカさんにお伝えしたり、「こんなの簡単に説明できないよ」と言われてしまった際の提案の仕方をお伝えしたりしました。
「服薬・自己管理アプリ」が患者と医療従事者にもたらした変化
――アプリのリリースから約1年となりますが、患者さんからはどのような声が寄せられていますか。
アストラゼネカ・末廣氏: 本アプリを利用いただいている患者さんにインタビューを実施したところ、4点ほどポイントが見えてきました。1点目は、スマートフォンを使うことによる入力や内容確認をする利便性の向上です。従来のような紙だと、紛失したり、記入に手間がかかったり、手帳が何冊にもなるので保管しづらいと、さまざまな不便がありました。ですが、スマートフォンだと入力が簡単で、いつでも手元で確認することができます。こうしたスマートフォンを使うこと自体を評価する声が多くありました。
2点目は、セルフケアコンテンツによる安心感です。当該抗がん剤の副作用については、病院から十分にご説明いただいていますが、やはり皆さん気になさっているようです。このアプリは、副作用が生じたときにどのようなケアをすればいいのか、しっかり動画で学べるコンテンツを用意しています。それが安心感につながったという声が寄せられています。
3点目は、医療従事者と患者さんのコミュニケーションの円滑化です。このアプリには、症状が出た際に写真をとって残しておける機能があります。例えば、患者さんが女性で医師が男性の場合に、見せづらいところを写真に撮っておくことで、「実は、今こんな感じなんです」と伝えやすくなる。コミュニケーションの観点でも、このアプリが役立っているようです。
4点目が、日常診療のサポート。地域によっては医療従事者のマンパワーが少なく治療内容の理解やセルフケアの指導まで十分に届いていない事もあります。このアプリは医療従事者の代わりに、患者さんの治療をサポートする役目を果たせるというのでは、というご意見もいただいています。
――なるほど。「服薬・自己管理アプリ」の今後の展開については、どうお考えですか。
アストラゼネカ・末廣氏: 最終的には治療アウトカムとして、病勢が進行するまでの期間や生存期間を最大限延長するような形で、患者さんに貢献できればと思っています。情報共有という観点では、当該抗がん剤は錠剤ですので初回は病院で処方されても、2回目以降は調剤薬局で処方されることが多くあるため、調剤薬局の先生方へもネットワークを広げながら、患者さんの服用状況や有害事象などの情報を構築していきたいです。
それと、本アプリの対象とする抗がん剤を服用する患者さんは75歳以上のご高齢者が多く、本アプリの利用に前向きではない方もいらっしゃいます。一方で、治療にはご家族がサポートされているケースも多く、75歳以上で本アプリを利用されている方の約半数はご家族なんです。その点を踏まえて何か工夫をしていきたいですね。
――Welby社としての今後の展開についてもお聞きしたいです。
Welby・五百川氏: まずは、患者さんがアプリを使うことで、セルフマネジメント力が向上し、先生とのコミュニケーションが改善することを目指していきたいです。また、蓄積されるデータをもとに、患者さんのペインポイント・ドロップポイントを可視化し、よりよいサービスに改善していきたいですね。それらを先生方にフィードバックできる仕組みの構築にも取り組みたいと思っています。
さらにその先には、電子カルテとの連携や他サービスとの連携を実現することで、医療従事者の業務改善や効率化にもつなげていきたい。患者さんもハッピーだし、医療従事者も楽になるというものを作れるかどうかが、私たちの勝負どころだと考えています。
――アストラゼネカ社としては、PHRに関してどのような展望をお持ちですか。
アストラゼネカ・髙嶋氏: 昨今、オンライン診療が普及し、患者さんと医療従事者間のデータ共有も容易になってきたことから、より豊かでつながりのある医療サービスの実現が期待されています。それを実現するための架け橋となるのが、PHRなのではないかと思っているので、Welbyさんとはオンコロジー領域だけではなく、それ以外の領域でも取り組みを進めていきたいです。
それと、患者さんご自身が入力した情報やセンサーデバイスから取得した情報を最大限活用しながら、そのうえで検査値や健康診断データなども、診察時に見せられるよう取り組みを強化していきたいです。PHRだけではなく、EHR(Electronic Health Record)・EMR(Electronic Medical Record)との連携も検討していきたいと思っています。
患者中心の実現を目指すヘルスケア・イノベーション・エンジン「i2.JP」
――最後に、「i2.JP」に参画することで得られるメリットや、参画を検討する方に向けてメッセージをお願いします。
Welby・五百川氏: 参画メリットは、様々な企業の強みやビジョンをインプットできることと、1社だけでできることは限られているので、自社の持つアセットを伝えていきながら、パートナリングを検討できることです。今後、私たちのPHR技術と参画企業のどこかのアセットとを組み合わせることで、両社にとってよりよいサービス、最終的には患者さんにとってよりよいサービスを提供できるような、きっかけをここで生み出せるといいなと思っています。
――共創パートナーとしてのアストラゼネカ社の特長は?
Welby・五百川氏: チャレンジ精神だと思います。最初に私たちのPHRサービスを導入いただいたのが、アストラゼネカさんでした。当時「PHRって何だ」「病院でアプリを使うとはなんぞや」という状況でしたが、アストラゼネカさんは私たちのコンセプトに共感してくださり、チャレンジしていただけました。そのことが、当社の事業にとって大きなターニングポイントになりました。戦略的パートナーシップに関しても、ひとつのプロジェクトだけに閉じるのではなく、横串を通して考えたいと思っていたのでありがたいです。
――末廣さん、髙嶋さんからも、参画を検討する企業に向けてメッセージをお願いします。
アストラゼネカ・末廣氏: 患者さんの情報や電子カルテの情報など、活用できる情報の種類や情報ソースが増えてきています。そこから、様々な患者さんのニーズも見えてきています。それらのニーズに応えようとした際、社内だけでは解決が難しいことも多くなってきました。そうした場合の相談場所のようなところが「i2.JP」だと捉えています。
製薬業界は規制がありながらも、変わっていく部分も多くあると思います。今回のように「医療全体を変えていくぞ」という意気込んだ取り組みは、私自身も初めてなので、刺激になっていますし勉強にもなっています。今後の動きも楽しみにしているので、ぜひ多くの企業・団体にご参画いただきたいです。
アストラゼネカ・髙嶋氏: 私たちは患者さんを中心としたコミュニケーションの構築や、治療支援、副作用のマネージメント推進に取り組んでいるので、患者さんのウェルビーイングにつながる技術・ソリューションをお持ちの方であれば、ぜひ一緒に取り組みたいです。一見して全く私たちと関連のなさそうな企業でも、お話ししてみると色々なアイデアが出てくることもあるので、興味のある方はぜひご連絡ください。
取材後記
患者中心の実現に向け、業界全体を変革するべくエコシステムの形成に乗り出す「i2.JP」。取材の中で語られたように、「医療全体を変えていくぞ」と意気込んだ取り組みは、国内において前例がないのではないだろうか。昨年11月に発足した「i2.JP」だが、参画社数は100に到達しつつあるという。この取り組みがどのような医療改革につながっていくのか――これからも活動の動向を追っていきたい。
なお、「i2.JP」は引き続き参画パートナーを募集中だ。医療機関や研究機関のほか、一見、医療業界とは関連のなさそうなデジタル関連スタートアップなども、ぜひ参加してほしいという。参加にあたり義務や費用は発生しない。興味がある企業・団体は、AUBA内 アストラゼネカ株式会社 専用ページよりコンタクトを。
(編集:眞田幸剛、取材・文:林和歌子、撮影:山﨑悠次)