世界シェアNo.1の「電子コンパス」を生み出したイントレプレナーに聞く(後編)
大企業のイントレプレナーのリアルに迫る新シリーズ企画「イントレプレナーの流儀」ーー第一弾の今回、登場してもらうのは旭化成の山下昌哉氏だ。1982年に同社に入社して「MRI(磁気共鳴画像診断装置)」「LIB(リチウムイオン二次電池)」「電子コンパス」の技術開発と新規事業の立ち上げに、長年繰り返し携わってきた。
前編となる前回の記事では、山下氏が電子コンパスを開発することになった経緯と、現在行っている『イノベーション・マネジメント・システム』の研究を始めたきっかけを伺った。今回はより具体的に、山下氏がこれまで研究してきた思考法を、テーマ設定から開発の進め方、マーケティング手法まで重要なポイントを聞いていく。
アントレプレナーとイントレプレナーの決定的な違いも語ってくれたので、これからイントレプレナーを目指す方にはぜひ参考にしてほしい。
大きな社会課題が解決された後の「次の課題」を考える
ーー本日は、山下さんがこれまで研究してきた、イントレプレナーのための思考プロセスを聞かせてください。まず新規事業のテーマ設定において、重要なことはなんでしょうか?
山下氏 : イノベーティブなテーマ設定をするために重要なことは「常識からの脱却」です。新規事業は将来拡大する市場からテーマを選ぶことが大切なので、大きな社会変化によって生まれる「新たな社会課題」を起点として発想をスタートさせます。
電子コンパスの場合は、「携帯電話の急速な普及」という社会変化によって生じた「緊急車両の応答時間が増加するのを防止する」という社会課題があります。携帯電話の位置情報を知らせる技術が義務化されることは自明だったので、位置を特定する技術のニーズが高くなることは明らかでした。
大事なのは、大きな社会課題からストレートに思いつく問題の解決策に手を出さないこと。それは世界中のライバルたちも思いつくため、すぐに市場がレッドオーシャン化しがちです。そこで勝つにはライバルたちに負けない体力(資本力などの総合力)が必要ですし、仮に勝っても価格競争などが激化して、利益の安定した大きな事業にはなり難いのです。
ーー電子コンパスのケースで言うなら「GPS の技術開発をする」がストレートな解決策ということですね。
山下氏 : そうです。「携帯電話の位置を測定する」という課題が明確なので「GPSの技術が有望だ」と考える技術者は大勢います。だから大きな社会課題が顕在化した頃には、既に世界中で「小型のGPSデバイス」の開発が始まっているわけです。ライバルと同じ発想で技術開発をしても、競争に勝って強い事業を作れる可能性はかなり低いでしょう。
ーー競争に勝つためには、どのような発想が必要なのでしょうか。
山下氏 : 大きな社会課題が解決された後に生まれる、次の課題を考えることです。多くの人が気付く最初の「大きな社会課題」は、誰かが必ず達成すると予想できますから、そこは誰かに任せます。自分たちは、その手段が広く世界に普及した未来の社会を想定した上で、次に発生する新しいニーズを予測して着手するのです。
携帯電話の「位置」が分かるようになれば、緊急通報以外でも位置情報を使う用途の開発ニーズが望まれますよね。その一つが「歩行者ナビゲーション」だろうと思ったわけです。
つまり、大きな社会課題が達成された後に生まれる次の課題も、高い確率で大きな市場に成長すると期待できるので、そこが狙い目。
こういう「課題の一回捻り」は、将来のニーズを先取りするという観点でも有効な発想だと思います。
常識を疑うために、常に「目的に遡って」考える
ーー課題を一回捻って設定したら、次は課題にどう着手すればいいのでしょうか。
山下氏 : 課題を達成するための選択肢は多数ありますが、その中で自社の強みが活かせる選択肢を選ぶことです。旭化成の場合、元々「磁気センサ」の技術を持っていたので、それを使って「歩行者ナビゲーション」のサービスに用いる「方位角センサ」を開発できるのではないかと自然に発想できました。
この時に陥りがちなのが、手段を起点にして新しい課題設定をしてしまうこと。「携帯電話で歩行者ナビゲーションをする」という本来の目的が、方位角センサという手段を起点に「地磁気測定用の磁気センサを開発する」という目的にすり替わってしまうのです。
そうすると「いかに高感度な磁気センサを開発するか」が大切だと考えるようになって、携帯電話で使う前提を忘れてしまいます。そのため「携帯電話内では、スピーカー磁石の影響で動かなくなる」「市街地の地磁気が乱れた場所では、高感度・高精度の測定が無意味になる」という落とし穴に気づかなくなるのです。
ーー適切な課題設定をしても、手段を優先するあまり、課題がすげ変わってしまうのですね。
山下氏 : そうです。適切な課題を設定したと思ったら、いきなり飛びつかないで、全体を俯瞰してみることが大切です。そこで、「微弱な地磁気測定には、高感度磁気センサが有利」という「常識」が破綻する課題だと気付いたら、イノベーションを起こせるチャンスが大いにあるということです。
問題を上手く解決するよりも、課題を正しく設定するほうがはるかに難しく重要で、事業の成否を分ける大きなポイントになるでしょう。
ーー常識から脱却するには、まず常識を疑わなければいけないと思いますが、どうすれば常識を疑えるのでしょうか。
山下氏 : 目的に遡って考えることです。常識に囚われがちな人ほど、目的を忘れて目の前の問題解決に没入しがちです。特に技術者は、課題設定の是非を見返すことなく、いきなり手段開発にブレイクダウンして「自分ができること」の範囲で問題解決をしようと考えてしまう傾向があります。
日頃は手段開発に集中していても、時々「今やっていることの目的はなんだっけ」と遡って考えてみると、もっといい手段が見つかるかもしれません。常識だと言われていることも、目的まで遡って考えてみると実は不都合があって、より良い方法が見つかることも多いので、ぜひ「何のためにやっているのか」を見失わないようにしてください。
デモ機を使った「並列開発」で効率的に開発を進める
ーーテーマの課題を設定したら、次は開発フェーズですね。開発する際に気をつけるべきことがあれば教えてください。
山下氏 : 「直列」ではなく「並列」で開発を心掛けることです。直列とは「1の開発が終わってから2の開発を始め、2の開発が終わってから3の開発を始める」という風に順番に開発を進めていくこと。
ハードウェア開発の場合、1の開発結果を元にして2の開発仕様を決めることが多いので、どうしても直列にしか開発できないと思われがちです。しかし、それでは1の開発が終わる(あるいは目処が付く)まで、2以降の開発を始められないので時間がかかります。
そこで先ず着手すべきなのが「プロトタイプ(デモ機)」づくり。その過程で開発する製品の全体が俯瞰できるようになれば、異なるスキル(部場)のメンバーが並列に開発を進められるようになります。最終製品と仕様(大きさや形)が違っても、必要な機能が一通り揃ったプロトタイプを作れば、1の開発が終わる前に、2以降の開発も各部場ごとに並列で始められますよね。
ーー電子コンパスでもデモ機を作ったようですが、最初はどんなものだったのですか。
山下氏 : 電子コンパスのデモ機は、大きさが携帯電話の何倍もありました。製品サンプルではなく、製品に必要な機能を揃えることが目的で、そのデモ機制作過程において、この先製品開発に何が必要になるのか漏れなく分かります。何の開発がボトルネックになりそうか見当もつくので、優先的に解決すべき問題が見えてくるのです。
デモ機が動作して全体機能に手応えを感じたら、後は部分機能ごとに仕様を決めて実現していく。一見、遠回りのようにも見えますが、直列に開発するよりも並列に進められるので、開発が早く進みます。ある種の Lean Startup ですね。
MVP を作ったら性能を上げずにコストを下げる。BtoB 製造業ならではの生き残り戦略
ーーデモ機が完成したら、次はマーケティングですね。マーケティングのポイントについても教えてください。
山下氏 : 開発製品の仕様を決める前に「デモ機」を持って顧客候補を周り、「技術マーケティング」をしました。未だ世の中にはない新製品を開発する場合、実物がないのに顧客に要望仕様を聞いても意味がありません。デモ機でもいいので実際に触ってもらいながら「どんな機能が必要か、その価値はどの程度か」を顧客と一緒に体験しながら探り出していくのです。
この時大事なのが「開発仕様を敢えて低めに説明してみて、顧客がダメだしする理由を聞くこと」。否定的な理由が自分でも納得できるかどうかを判断しながら、目指すのは世の中に普及するための「最低仕様(MVP)」を見つけることです。
BtoC ビジネス、特にソフトウェアサービスの場合は、先ず MVPを市場に出して、顧客の声を取り入れながら段階的に高性能化・高機能化していきますよね。しかし、BtoB のハードウェア(部品や材料)ビジネスでは、MVP の意味が少し違うように思います。
市場が受け入れる MVP の仕様を見極めたら、多くの場合それ以上の性能や機能を追加しても、それに見合う顧客価値が生まれません。BtoB のハードウェアビジネスには、部品や材料の仕様を元に、次の製品仕様を決めている長い連鎖があります。そのため、一度バリューチェーンが繋がると、一部の製品だけ性能や機能が増えても、全体の価値が上がりにくい宿命にあるのです。
ーーえ!最低仕様のままでいいのですか?
山下氏 : その代わりに、最低仕様を維持したまま、コストを下げる開発に全力を傾け続けます。また、最低仕様は時代によっても変化するので、常に最低仕様のラインを見極めなければいけません。
最初は10の性能が最低仕様だったとしても「8の性能でもいい」と求められる性能が変わることもあります。そういう時に、もし他社に「安くて8の性能の製品」を作られてしまうと「10の性能製品」は市場から駆逐されます。日本では10の性能を実現したら、これを12に上げる開発をすることが多いので、これまで何度も海外勢に市場から駆逐されてきました。
ーー頭では理解できますが、技術者の方たちは納得しづらそうですね。
山下氏 : 仰るとおり、「ものづくり」にこだわりがある日本の技術者にとって、このような考え方は受け入れがたいところもあるでしょう。しかし高性能なものを作るためにイノベーションが必要であるように、コストをドラスティックに下げることも立派なイノベーションです。
かつての高度成長期は、技術的に達成できる性能が未熟だったからこそ、性能を上げるほど売れましたが、今は違います。技術が進歩し、最初から十分な性能の製品が作れるのです。そのような時代で生き残るには、更に性能を上げるよりも、MVP を見極めながらコストを下げる努力をしなければなりません。電子コンパスも、事業化後にコストを下げる技術で、大きなイノベーションを起こしていたからこそ、スマホの時代にも生き残ったのです。
イントレプレナーに大事なことは、最初の「ストーリー設定」
ーー山下さんにとって、アントレプレナーとイントレプレナーの違いはなんでしょうか。
山下氏 : アントレプレナーとイントレプレナーでは、同じ「事業を作る」にしても、その目的が全然違います。スタートアップの多くは「バリュエーションの増加」を目指します。ある時点で儲かっているかどうかよりも、将来のポテンシャルを高めるほうがスタートアップにとっては重要なのです。
でも、既存事業のある企業内でイントレプレナーが同じことをしても、ほとんど意味がありません。イントレプレナーが会社に求められていることは、一刻も早く事業を累積で黒字化して、その後も長く利益を出し続けるような事業を生み出すこと。
この2つは、短距離走とマラソンくらい違いますが、しっかりと区別しないで混乱しているイントレプレナーも少なくありません。スタートアップは将来のビジョンそのものに大きな価値を持てますが、社内の新規事業は結果として利益を出せないでいると、どんなに社会的意義があっても撤退させられてしまいます。
そういう意味で、イントレプレナーはリアルな社会価値を実現して、長期的に利益を上げる戦略に、もっとも知恵を絞り、技術力を使わなくてはなりませんね。
ーー長期的に利益を出すために、イントレプレナーが注意しなければならないことを教えてください。
山下氏 : 事業を立ち上げるときの最初のストーリー設定です。新規事業は最初に企画を考えた人が、将来の市場拡大期における事業の成否に対して7割くらいの影響力を持っています。特に BtoB の製造業では、生産や営業のチャンネルが一旦できあがってしまうと、大きな慣性力を発生して後から立て直しがききません。最初に事業化初期の商品競争力にだけ注力したストーリーを立ててしまうと、次の普及拡大期にコストを下げようとしても、思うように対応できないのです。
例えば電子コンパスでは、最初から市場が広がって事業が大きくなった頃に、一番効果的な技術を想定して、コストダウンし続ける仕組みと量産性を高める生産方法の開発をしていました。安く大量に作るための技術開発をしていたので、後にスマホ市場が急拡大した時でも需要の急増に対応できたのです。もし性能アップを優先してコストダウンと量産性の向上を二の次にしていたら、仮に最初の勢いは良くても、市場が拡大して価格競争が激化した時に生き残れなかったでしょう。
イントレプレナーの中には、アントレプレナーのような派手な急成長に憧れている方もいるでしょうが、「スタートアップ起業」の評価指標はバリュエーションであり「社内起業」の評価指標は実利益なので、全く別物です。元々使えるリソースが多いことを活かせば、実は事業を立ち上げるスピードも、アントレプレナーよりイントレプレナーの方が本当は早いと思います。しっかりとイントレプレナーの事業開発戦略を見定めることが、社内起業成功の近道ではないでしょうか。
編集後記
起業家を新規事業責任者として採用するものの、失敗するケースは珍しくないし、逆に新規事業の達人が起業して失敗するケースもよくあること。その事実からも分かるように「起業」と「社内起業」は全くの別物。
山下氏が言うように、それぞれ目的が違うのだから、そのノウハウも全く違うのは当然だ。その事実を知っておくだけでも、イントレプレナーとして成功する確率は上がるのではないだろうか。社内起業で成功したいなら、ぜひ社内起業の目的を考えて戦略を練ってほしい。
(取材・文:鈴木光平)